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生きやすさを、ととのえよう。
2024.08.24

奥能登へ。ー私が経験した能登半島地震ー

震災後、私自身が最初に奥能登に入ったのがいつか、正確に記録をしていたわけではありません。

スケジュール帳を見ると、1月31日に、奥能登入りしたとの記載があります。

私の記憶が正しければ、たしかに、この日が最初の奥能登入りだったように思います。

当日も、どんな足取りを辿ったか、完全な記録が残っているわけではありません。

覚えている範囲で、珠洲市の飯田小や正院小、宝立小中学校を尋ねました。

金沢を早朝に出発しましたが、穴水町のあたりで渋滞につかまり、通行止めの箇所を迂回しながら珠洲市に向かいました。4~5時間はかかりました。

炊き出しをしているボランティアチームの皆さんや、地元の市議会議員、避難所スタッフの皆さんからお話を伺わせていただきました。

仮設トイレなどはありましたが、水は使えず、給水タンクを利用されていました。

すでにこの時点で、仮設住宅の建設が始まっているところもありました。

避難者の皆さんはまだまだたくさんおられて、トイレなどの衛生環境や食事の問題で困っているという声が多かったです。

発災から約1か月。県内外に2次避難される方もいましたが、1次避難所で生活される皆さんは相当疲弊されていたと思います。

被災者の皆さん自身が自分たちで避難所を運営しなければいけない。その負担を感じました。

もちろん、県内外からたくさんのスタッフの皆さんも来られていました。それでも、過酷な状況でした。

珠洲市内は、かなりの家屋が倒壊をしてしまっていました。想像をこえる光景に、言葉も出ませんでした。

崩れたがれきは、そのまま道を塞いでしまっています。

まだ、このときは家を解体できるような状況ではありませんでしたが、それでも崩れてしまった家を見るのはつらかったです。

津波に襲われた地域も通りました。住宅が流されて、岸の方で2階部分だけが不自然な形で置かれている。

車が流されて住宅の中まで入り込んでいるようなところもありました。

普通ではありえない光景に、津波の威力のこわさを感じました。

最後に、珠洲市内のボランティアNPO団体を尋ねました。

災害対応の専門の皆さんで、発災後すぐに被災地入りして活動をされていたそうです。

この時点では、炊き出しボランティアの全体調整をされていました。

炊き出しだけでは限界があって、本来はお弁当の配布などが行われるケースが多いが、今回は地理的制約などもあって時間がかかっていること。

避難所ではない、自宅避難者にまで支援を届ける必要があることなどをうかがいました。

自己完結能力をもったボランティアの皆さんの専門性には、正直驚かされました。

災害時には、公的機関に加えて、民間やボランティアなどの、多くの人手を動員する力が必要になります。

このコーディネートのあり方を、今一度アップデートしていくことが大切だと、感じています。

31日の奥能登入りは、こうした工程でした。その後も、何度か奥能登に入りました。

ボランティアでは、県のボランティア拠点に宿泊をして、能登町での活動にも参加をしました。

輪島市の保育園をたずねて、子どもたちの遊び場を提供するということもありました。

その際に、輪島市内も回りました。隆起した海岸線や、燃えてしまった朝市の景色も。

断続的に訪れる機会がありましたが、変化しない風景に、少なからずじれったい思いを感じたことも事実です。

地震から数か月がたっても、元日の風景のままだという声も聞きます。

少しずつ進んでいる部分はありますが、一日も早く日常を取り戻したいという被災した皆さんの想いは切実です。

今は、仮設住宅もそれなりに建ち、道路も復旧をして、また状況は変化をしています。

一方で、公費解体や仮設住宅の入居期限が2年程度であることを考えると、

今のペースでは難しい部分もあるかもしれません。

とにかく、一日も早く今後の生活の見通しが立つように、党派を超えてやるべきとこに取り組むしかありません。

私自身も、能登半島地震からの復旧・復興にむけて、取り組んでいきたいと思います。

最後に、これからの能登半島について自分なりの考えを書いて、半年時点での振り返りを終えたいと思います。

能登半島地震からの復旧・復興へ。
党派をこえて力を尽くします。