NEWS お知らせ
初動。ー私が経験した能登半島地震ー
16時10分。地震が発生。
街頭活動中の私は、急いで自宅に戻りました。
能登半島沖が震源であると知り、言葉が出ませんでした。
避難を促すニュースの映像と音声が脳裏に焼き付いています。
最初に考えたのは、自分たちの住んでいる地域は大丈夫か。津波の浸水地域ではないか。
防災マップなどはありませんでしたが、海岸などから15キロほど離れており、津波は来ないだろうという判断をしました。それでもやはり心配は尽きず、テレビ画面から離れることができませんでした。
前もって避難について考え、備えておくことは大切だと、改めて感じています。
実際、金沢市内では、多くの方が地域の避難場所である小学校などに避難されたとのことでした。
万が一を考えて、避難をいただけたことは良かったと思っています。
車で高台に避難をされる方もおられました。車の渋滞が多発をしたそうです。
そうしたことも踏まえて、いざというときにどう動くかは、それぞれの方が事前に準備をしておくことが大切だと考えています。
発災当日は、元日、夜が迫る夕方の時間帯、半島という地理的要因、さまざまな理由があいまって、被害状況の把握そのものは極めて難航をしました。
テレビニュースを見ていても、奥能登にどれくらいの津波がやってきたのか、どれくらいの家屋が倒壊しているのかが、ほとんど分からない状況が続きました。
唯一分かったのは、輪島市の中心地が火の手に包まれていること。
赤い炎が燃え上がる様子を見ながら、それ以外の被害状況が見えない恐さを感じる夜でした。
その夜も何度も余震に伴う緊急地震速報が鳴り響き、眠れない夜になりました。
翌朝も、被害状況はすぐには見えず。
私は、報道などを確認しつつ、すぐに金沢市内の党県連へ。
県連の皆さんと連絡を取りつつ、今後の動きを確認しました。
私の仕事は、まずは金沢市内での被害状況の確認。
さまざまなルートで状況を調べました。
田上地区でのがけ崩れ、粟崎地区での液状化。北陵高校前での大規模な崩落もありました。
避難された方も多数おられました。家屋の倒壊の恐れや、電気・水道の停止が主な理由だったと思います。
さらに、能登地区での被害についても、少しずつ分かってきました。
家屋の倒壊が相次ぎ、素早い救助が求められること。
道路が寸断され、自衛隊や消防などの救援が難航していること。
一般の方が金沢から能登に入るのは難しいだろうということを、県連には報告をしました。
ちなみに、県連代表で、石川3区選出の近藤和也衆院議員が、穴水町で被災し、避難所におられました。そうした状況の中でも、県連のそれぞれの方が情報収集にあたったというのが発災2日目でした。
3日目には、県連役員が集まって災害対策会議。
全体で状況を確認しました。
この段階までに、一般の方が物資を運び込んだり、救援に向かおうと、能登方面に向かっているということが分かりました。
道路が寸断されている中で、一般車と救急隊の車が集中し、道路が渋滞になっている。
そうした状況も踏まえて、私からは、今はプロの救助活動を妨げないことが大切だということを考えてしました。
石川県も、4日の段階で、一般の方の不要不急の能登入りを控えるよう、アナウンスを行うようになりました。
一方で、人命救助に重要な72時間の対応については、引き続きよくよく分析をしていかなければいけません。
過疎化と高齢化が進む半島という地理的・社会的要因があるなかで、災害時の対応をどうするのかは、大きな課題を残したと思います。
被災地の皆さんからは、最初の数日間の不安、もっと救助のためにできることがあったのではないかという声を伺いました。
簡単なことではなかったと思いますが、一人でも多くの方の命を救うために、どういう備えが必要なのかは、不断に考えていかなければいけません。
救助だけではありません。避難所の運営。物資の確保。被害の把握。
こうした災害時の動きについては、さまざまなケースを想定して、備えをしておかなければいけない。
初動の3日間は、もどかしさを感じる時間になりました。